双極性障害2型と暮らす

双極性障害2型、仕事をしながら薬調整をしようとしたが、失敗。2度目の休職者(1年間)。睡眠改善、薬の使い方を調整後、復職。現在挑戦中のきままなブログ

『宇治拾遺物語』巻一之十六 「尼地蔵見奉る事」

どうも。

 

今回は古典ネタをお届けします。ちょっと長いですけど、全文見ていきますね。お時間のあるときに読んでください。古典なのに、こんなオチあり!?って感じになります。

 

前回の古典の話

 

soukyoku2.hatenablog.com

 

 

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目次

 

1 前半

さて、本分見ていきますね。旧字体やルビをちょっと変えました。もしかしたら文字化けしちゃうかもしれないので。本分は『日本古典文学大系』を中心に、少し改編しています。

 

尼地蔵見奉る事(卷一ノ一六)

 今は昔、丹後国に老尼ありけり。地蔵菩薩は暁ごとに歩き給ふといふことを、ほのかにききて、暁ごとに、地蔵見奉らんとて、ひと世界まどひありくに、博打(ばくちうち)の打ほうけてゐたるが見て、「尼君は、寒きになにわざし給ぞ」といへば、「地蔵菩薩の暁にありき給なるに、あひ参らせんとて、かくありくなり」といへば、「地蔵のありかせ給ふみちは、我こそ知りたれば、いざ給へ、あはせ参らせん」といへば、「あはれ、うれしき事哉。地蔵のありかせ給はむ所へ、われを率ておはせよ」といへば、「われに物をえさせ給へ。やがて率て奉らん」と云(いひ)ければ、「此着たるきぬ奉らん」といへば、「いざ給へ」とて、隣なる所へ率てゆく。

 

タイトルは「尼が地蔵を拝見すること」ですが、「尼が地蔵を拝み奉ること」としておいた方が適切でしょう。「尼」とは、「僧侶」が男性のお坊さんならば、「尼」は女性の仏道の者となります。一文目にあるように、「年老いた尼」が主人公です。

さて、二文目には、「地蔵菩薩は暁ごとに歩き給ふ」とあります。地蔵菩薩とは、皆さんもご存じのお地蔵さんです。「暁(あかつき)」とは「未明、夜明け近くのまだ薄暗い時」を指します。季節にも寄って時間は変わるかもしれませんが、基本的には日の出前と思っていただければいいでしょう。人の目のつかない時間帯に歩き回っているということですね。

尼はそのことを噂で聞いたんですね。そこで、暁にお地蔵さんに会いたくてあちらこちらを歩いていたということです。

そうこうしていると、「博打(ばくちうち)」で博打に明け暮れているのがいて、尼を見つけます。そして、「尼さん、どうしてこんな寒い中歩いているのはどういうわけですか?」と聞くわけです。尼は「お地蔵さんが暁に歩くというのを聞いて、会いたくて歩いているのです」と答えます。そうすると、博打打ちが、「お地蔵さんの歩き回っているのを知っていますよ。さあ、一緒に行きましょう。会わせて上げますよ!」と言うのです。

尼は喜んで、「私を連れて行ってください」と頼みます。そうすると、博打打ちは「私に何かください。そうしたら会わせて上げますよ」と言うのです。尼は「それならば私が着ているものをあげましょう」と言うと、「じゃあ行きましょう。」って言って、隣の家に行くのです。

 

ここまでのお話しで、地蔵に会いたがる尼を博打打ちが会わせると言って連れて行くという場面ですね。博打打ちはいいやつかと思ったら、見返りを求めるわけですね。この時代、「着ている服を与える」というのが「褒美を取らす」ことに当てはまります。恐らくですが、尼の着ている服はそれなりに価値のあるものだったのでしょう。朝まで博打打ちに明け暮れている者からすれば、よい賭けのタネになったんでしょうね。

さて、博打打ちは本当に「お地蔵さん」に会わせてくれるのでしょうか?

 

 2 中盤

 尼悦(よろこび)ていそぎゆくに、そこの子に、ぢざうと云ふ童ありけるを、それが親を知りたりけるによりて、「ぢざうは」と問ひければ、親「あそびにいぬ。いま来なん」といへば、「くは、ここなり。ぢざうのおはします所は」といへば、尼、うれしくて、つむぎのきぬを、ぬぎてとらすれば、博打は、いそぎてとりていぬ。

尼は喜んで急いで付いていったんですね。隣の家の子に、「ぢざう(と書いて「じぞう」と読みます)」という子どもがいたのです。博打打ちはその親を知っていたので、「じぞうはいるか?」と聞いたところ、(じぞうの)親は「遊びに行ったよ。もうすぐ帰ってくるだろう」と言ったので、「尼さん、ここだよ。じぞうさんがいらっしゃるところは」と言ったので、尼は嬉しくなって、紬の絹を脱いで、博打打ちに与えたところ、博打打ちは急いで去って行った。

となっているんですね。

あーだましやがったなー!!博打打ちやっぱり悪いやつだー!!

地蔵菩薩に会いたがっていた尼をだまして、「じぞう」って名前の子どものところに案内するんですよ。こりゃだましですよね。

でも、「じぞう」って名前を付けられるなんてちょっとかわいそうな子・・・と思っちゃいますよね。

 

でも、ちょっと待って!

 

よーく見るとこの部分ちょっとおかしくないですか?

古典ってね、書いてあることをそのまま「へー」って読んでいくと何も気づかないんですが、「整合性」を考えて読んでみるとおかしさが見えてくるんですよ。

 

親「あそびにいぬ。いま来なん」

この部分です。じぞうという名の子どもは「遊びに行ってる」というんです。この話を思い出してください。時間はいつですか?

そう、尼は地蔵さんに会いたくて、暁に歩き回っていて、博打打ちに連れてもらって、この家にやってきたのです。隣の家とあるので、それほど時間は経っていないでしょう。ということは、夜も明けぬ時間帯に遊びに行っているとは、どういうことなんでしょう?

夜明け前に遊び行っていて、もうすぐ帰ってくる。親もさほど不審には思っていない様子。いつものことさってくらいの余裕を感じます。変ですよね?ここがこの物語の伏線です。

さっと読んでいたら流していまいそうですが、ここに気づくと、もしかすると・・・このパターンは!!って期待できますよね。

 

 3 後半

尼は、地蔵見参らせんとてゐたれば、親共は、心得ず、など此童を見むと思ふらんと思ふ程に、十ばかりなる童の来たるを、「くは、ぢざう」といへば、尼、見るままに是非もしらず、臥(ふし)まろびて、おがみ入て、つちにうつぶしたり。童、杣(すはえ)を持てあそびけるままに、来たりけるが、その杣して、手すさびのやうに、額をかけば、額よりかほのうへまでさけぬ。さけたる中より、えもいはずめでたき地蔵の御顔見え給ふ。尼おがみ入て、うち見あげたれば、かくてたち給へれば、涙をながしておがみ入参らせて、やがて極楽へ参りけり。
 されば心にだにもふかく念じつれば、佛も見え給ふなりけりと信ずべし。

 尼は地蔵を拝見したいと思って座って待っていたので、じぞうの親たちは、理解出来ず、どうしてうちの子を見ようと思っているんだろうと思っているんですね。(そりゃそうですよね。尼さんが明け方にやってきて子どもを拝みたいって言ってるわけですからね)そうこうしていると、十歳ばかりになる子どもがやってきます。親が「これが、じぞうです」と言ったところ、尼は見るままに我を忘れて、転がり回って拝み入って、額を土に付けて突っ伏していました。(土下座のもっと体が地面に付いているバージョンです)

子どもは「すはえ(まっすぐに伸びた木の棒。)」を持って遊んだままやってきたが、その「すはえ」で暇つぶしのように、おでこを掻いたところ、おでこから顔の上まで裂けた。裂けた中から、言葉では言い表せないくらいすばらしい地蔵菩薩のお顔が見えなさった。

尼は拝み入った状態から、見上げたところ、このようにじぞうが経ちなさっていたので、涙を流して拝み申し上げて、そのまま極楽へと参ってしまった。(死んでしまったということです)

そうであるので、心から深く念じていれば、仏もお見えになってくださると信じるのがよいであろう。

 

こんな内容です。衝撃走りませんでした?明け方に遊びに行ってるってあったから、この「じぞう」って名前の子どもが本当にお地蔵さんっていうオチなんでしょ?って思っていませんでした?確かにその通りなんですけどね、お地蔵さんの登場の仕方ですよ。

 

子どもの額が割れて、その中からお地蔵さんがのぞいているんですよ!

 

バッカルコーンって思いました。この話を最初に読んだとき。

ほら、天使の生き物っていわれてた、クリオネっていますよね。

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このかわいい生き物、捕食の仕方がエグいって有名になったんですよ。捕食するとき、頭が裂けて、グワッシって獲物を捕らえるんですよね。

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無料イラストをいつも利用していますが、バッカルコーンで出てきましたよ。やっぱり需要あるんですね(笑)

 

すごい衝撃ですよね。頭が割れて、中から出てくるって。昔の人の想像力って豊かって思うかもしれませんが、実は、仏教の世界では「胎内仏」というのがあるのです。仏さんを作った際に、その胎内に小さな仏さんを入れておくんです。

これって昔ではよく行われていたそうです。現代は技術の進歩で、仏さんの調査時にX線検査するんですよね。要はレントゲンです。そうすると、胎内に仏さんがいるってなるみたいです。昔の人は、外見だけではなく、その内面がどうなのかに重きを置いていたのでしょうね。

 ちなみに、額をさいた「杣」はまっすぐの木の棒なので、お地蔵さんが持っている錫杖のイメージですね。歩くときに手に持ってついている杖みたいなやつです。

 

この最後の場面、もう一つ、大変なことが書かれています。

涙をながしておがみ入参らせて、やがて極楽へ参りけり。

尼さん、極楽に入っちゃうんですよ。つまり、その場で息絶えるんです。まぁ、極楽に入ってるので大往生ですね。でも、

ここ、人の家です。

そうなんですよ。親からしたらビックリですよね。明け方、知り合いの博打打ちが連れてきた、尼さんが子どもみたいっていうから、子ども帰ってくるの待たせておいたら、拝んで涙流して、そのままお亡くなりになるんですもん。

どうします?このあとどうなったか書いてないんですけど、この尼さんはどのように葬られたんでしょうね・・・ちょっと気になります。

 

どうですか?これも古典です。見方を変えれば、結構面白くないですか?私はこういう話が大好きです。ついつい探してしまいます。

高校の古典の教科書に載っている話がこんな話だと面白いと思うんですけどねー

ちなみに私は授業が早く終われば、こういう話を持っていて読ませています。テスト範囲よりこっちの方が覚えられていることが多いですが・・・(笑

 

4 締めの一文

されば心にだにもふかく念じつれば、佛も見え給ふなりけりと信ずべし。

こんな斬新な話でしたが、最後の一文は、仏教論になっていますね。仏様を見るためには、心から深く念じることが大切だということですね。

この一文を踏まえて、考え直すと、頭が裂けてお地蔵さんが見えているのは、「尼だけ」と考えられます。子どもやその親にとっては何も見えてないんですよ。でも、尼には見えているのです。

でも、この子どもは明け方に歩き回っているということは、胎内に宿っているお地蔵さんの影響を少なからず受けているということですよね。生き霊?みたいにも感じてしまいますが、素晴らしい影響を受けていると考えるべきでしょう。

 

ちなみに、地蔵菩薩というのは、あの世とこの世を往き来する仏様です。死んでしまってあの世に行く途中にお地蔵さんに会って救い出されるという話もあるくらいです。でも、お地蔵さんは忙しいらしいです。常に歩き回って、忙しい忙しいって入ってるんです。

石像のお地蔵さんがこの世にたくさんありますが、あの世とこの世を結んでくれる身近なお地蔵さんなんですね。

みなさん、お地蔵さんを大切にしましょう!!

万が一、不慮の事故で死にそうになっても、お地蔵さんに会えれば助かるかもしれませんよ!!

 

と、お地蔵さんの宣伝入れておきます。現代風にブログを通して・・・(笑

 

ということで、今回は古典を題材にした記事をお届けしました。

こういう記事は、書くのに時間が掛かりますが、やっぱり楽しいです♪