双極性障害2型と暮らす

双極性障害2型、仕事をしながら薬調整をしようとしたが、失敗。2度目の休職者(1年間)。睡眠改善、薬の使い方を調整後、復職。現在挑戦中のきままなブログ

また現れ始めた ー希死念慮ー

どうも。

 

一昨日は朝から早く起きれたので、日中の時間が多く使えると思っていましたが、気分が朝からあまり高くなく、非活動的になっていました。

漢検の勉強はしたけれど、散歩はいけませんでした。まぁ天気悪かったのもあるので、仕方ないことにしておきましょう。

 

日中は特に問題なかったんですが、夜になるにつれて、少しずつ「死にたい」気持ちが湧き上がってきました。

f:id:hodaka6212:20180427113629p:image

特に、何かあったわけではありません。逆に何もないのです。何もしていないのです。なのに、喉が渇いたと同じようなレベルで「死にたい」という欲求が起こるのです。今回のはそれほど強くありません。というか、こういう感覚はもう何度も経験してきたので、自分自身の中で慣れてきたという側面もあるかもしれません。

 

でも普通は死にたいって思うのは、普通ではないんですよね。縁起でもないこと言うなってなるんでしょうね。命を粗末に扱う、そんな風にも聞こえるのかもしれません。

「死にたい」と思うのは、自己否定の側面もあるのですが、脳のエラーであると考えています。というか、そういう風に言われています。

この日のように、気分がうつ状態になっていても、脳が躁状態になりかかることがあります。そうすると、頭の中だけ忙しく動き回ります。あれやこれやと考えてしまうのです。そうすると、「あれができない」「これができない」と今の現状からできないことがたくさん浮かんでくるのです。

 

こうなると、生きている意味ないんじゃないか、もう自分には価値がないんじゃないか。「社会のお荷物なんじゃないか」という考えが自分の中に充満してきます。そんなやるせない状態になると、「死にたい」「消えてしまいたい」と思ってしまうんですよね。

 

これって理屈が通っているようで、現状から見えるごく一部だけで全部を捉えようとして、脳が過活動を起こしている状態なんだなと思います。現に、この状態になった時、脳の興奮を抑える頓服薬を飲むと、眠りに誘われ、このような発想は抑えられます。

 

でも、この発想というか、考えを薬で無理矢理抑えて、なかったことにしてしまっていいのだろうかと思う節もあります。確かに、逆のパターンの時は実行してしまいそうになるので、すぐに止める必要があります。体が躁で、気分が鬱。そんなときに脳の過活動が起きると意識が飛び、奇行をしてしまう経験があるからです。でも、このテーマは考えを持って中心となる軸を作っておかないとなかなか納得のいかない気がします。

 

人生の中で初めて死にたいと思ったのは10歳の時でした。小学校4年生の時です。もうその時には死を考えていました。その頃は、どうやったら死ねるのかがわかりませんでした。ニュースで死人がでるものを聞くと、1抜けたと言って、ゲームから抜け出せるような、そんな感じを受けていました。だからといって、殺そうと思うことはありません。いかに死ねるか、それを考えていました。

高校生の時に、文豪たちの情報を国語の便覧から得ました。何人か経歴を読んでいるのですが、みんな若くして自死したり、病気で死んだりしています。能力のある人が若くして死んでしまって、もったいない、もっと価値ある作品が生み出されたかもしれない。そういうメッセージがあるのかもしれませんが、私は憧れを抱きました。服毒自殺。毒なんて手に入らないけどどこかに憧れがありました。

 

そういう発想は未だに続いています。だからこそ、無意識になった時、ハイターを飲んだのかもしれません。心の奥底で憧れを抱いているからこそ、それに倣おうとするのかなと。そうなると、自分自身で、生きる、死ぬの納得いく解を得ていないと、無意識になるとそちらに近づいてしまうのではないかなと思っているのです。

 

だから、この病気になって現れた「希死念慮」は、元々心の奥底にあって、それが理性で抑えられているだけで、無意識になると表に出てくるんじゃないかと思います。普段は理性が勝っています。そして、この理性は「生きる」が普通だと思っています。でも、その理性を通して、自分の奥底にある無意識に「生きる」が普通なんだよって思わせることが必要なんじゃないかと思います。

 

生きることって、誰にとっても当たり前じゃなくて、そう感じ取れない育ち方をしてしまう場合もあるんだなと思いました。病気で生きたくても生きられない人もいるから、そんな発想は自己中だと思われるかもしれません。でも、心の奥底で代われるなら代わってもいいと思う自分もいます。それはかわいそうだからというような心情ではなく、自身の願望の実現のためにとなってしまいます。

 

でも、生きているのなら、何かしら役目があるからなんだろうと思うようにしています。運命とか宿命とか、何かはっきりしてくれたらいいんですが、わからないけど、何かがあるから、こうやって生かされているのかなと思います。

きっと、アレルギーがひどくて、定期的に病院に行ってなかったら、うつになって自殺していたと思います。あの時、おかしい状況になって、病院を紹介してくれたアレルギー科の先生がいなかったら、今の私はなかったと思うくらい最初はひどかったです。

 

あの時期に比べたら、今はまだある程度落ち着いて考えをまとめられる気がします。

もし、混合期の衝動や気分の変調で「死にたい」と思う人がいたら、まずは薬で止めておくといいと思います。でも、ある程度落ち着いたら、どうしてそう思うのか、心の奥底に眠る自分の死への発想にむきあってみる時間が必要なんじゃないかなと思います。

 

とりとめもないことでしたが、今考えられるところまでの意見を書いてみました。